最近、授業というと「グループでの話し合い」の場面が多く見られる。「学び合い」という名の下に。しかし、多くの場合、その活動が学び合いになっていないのではと感じることが多い。
たとえば、一人一人に考えさせたあとに、「さあ、グループで話し合いましょう」となると、そこでは、わかった子の考えを中心に話しがまとめられてしまい、わからない子は置いてきぼりにされる。グループとして正答をまとめなければならないので、「わからない」とか「ここ、へんだなあ」、「ここから後がわからない」といった意見はほとんど取り上げられることはない。それなら、全体の場で、わかった子に発表させて授業を進めた方がいいのではないか。
結論を言うと、「答えをひとつまとめるためにグループをつかってはいけないのではないか」ということである。
なぜ、わざわざ、となりやグループで話し合うのか?それは、考えが深まらないときや全体での話し合いが行き詰まったときに、自分の意見を言ったり、友だちの意見を聞いたりすることで、なにかヒントをもらったり、問題を解くきっかけをもらったりすることを期待するからである。わからない子や意見がまとまらずに困っている子が活躍し、また、その子たちの疑問やつまずきについて考えることで、わかったつもりの子たちの理解がさらに深まったり、新たな気づきを生むことにつながると期待するからである。
「グループは4人がいい」とか、「机はコの字型がいい」とか、そういう言葉をよく聞くが、その目的を見失わないようにしたいものである。「グループでの学びを見取ってください」といわれても、そこでの学びが薄すぎる。もちろんそれも含めて見取るのであるが、その前にもっとやってほしいことがあると思ってしまう。
ついでになるが、もう少し「教えても」いいのではないか。「教えて学ばせる授業」が必要ではないかとも思っている。このあたり、この夏は自己研修したい。
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