2017年3月20日月曜日

歴史における親子と兄弟 その確執

【今日の本】
「雑誌『歴史人』2017年4月号」 「『名将か凡将か?」英雄たちの後継者を検証する』」

 名将の二代目は、御家を滅ぼした愚か者という論調が支配的であったが、それは本当か?実績や情勢を再検討した内容である。
例えば、武田信玄と勝頼、豊臣秀吉と秀頼、徳川家康と秀忠、今川義元と氏真。兎角、二代目は損な役まわりなんでしょうか。どちらかというと中継ぎという評価しかあたえられてこなかったのでしょうね。偉大なる父の跡継ぎ。しかし、実際には一般的にいわれているような姿ではないと思われます。
 武田勝頼が武将として優れていたことはこれまでにも本で読んだことがありました。むしろ信玄が勝頼を正式な家督と認めなかったかの方が不思議である。家臣の誰かが進言したのであろうか。このような家臣のまとまりのなさが致命傷であったと考えます。また、高天神城に救出をださなかったこと、勝頼自身の過信が滅亡につながったのかも知れません。もちろん、個人の資質や功績だけで武田家が生き残れるとは思えませんが。
 今回、面白かったのは、豊臣秀頼。文化的教養だけでなく、兵法も学習し、武芸も身につけていたとある。兵法書を学び、弓や槍、武術に居合術も一通り身につけていたようで、大坂城の奥でぬくぬくと育てられたというイメージは一新する必要があるようだ。字もうまかったようです。だからこそ、二条城での会見後に深い警戒感を抱いたというのである。結局は、周りの大人(女)たちの危険な場所に出せないという意識が働いたのでしょうか。

 「日本史 兄弟対決」後藤寿一:著 柏書房:編

 歴史において、兄弟の対立は熾烈である。上記の二代目になるため、一代目の権力に一番近い存在として争うのは当然である。リーダーと補佐官として強い絆で結ばれており、絆が強い反面、一旦こじれはじめると大変なことになる。天智天皇と天武天皇、崇徳上皇と後白河天皇、源頼朝と義経、足利尊氏と直義、織田信長と信勝、豊臣秀吉と秀次、徳川家光と忠長。
 特に面白かったのは、崇徳上皇と後白河天皇。これは知らなかった。保元・平治の乱の背景がよくわかり面白かった。ちなみに、崇徳上皇といえば、NHK大河ドラマでは、井浦新さんでしたか。
 保元の乱とは関係ないけど、百人一首にある「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末にあはんとぞ思ふ」も崇徳院ですね。私の場合は、百人一首より古典落語「崇徳院」のほうが印象深いですが。百人一首といえば、天智天皇と天武天皇の両方に愛された額田王の存在も忘れられません。

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