2017年8月7日月曜日

野尻銅山

 8月6日(日)、福井ライフアカデミー「小浜藩の野尻(三幸)銅山と住友 ー経済発展と環境問題を両立させた鉱山ー」に参加しました。 名前だけは知っていたけれど、詳しくは知らなかったのが、参加の動機です。
 まずは、野尻銅山の紹介。はじめは、1760年ころに小浜藩営の銅山として開坑しました。71年に一旦休山となりますが、1809年から大阪の住友の資本により再開となりました。1854年には、再度藩の直営になりますが、住友の使用人により稼業されていたそうです。安政年間には、全国屈指の産銅高でしたが、1870年に廃業しました。
 いくつかの疑問。
①三光・三幸とは。
 野尻銅山は別名、三光(もしくは三幸)銅山とも呼ばれます。三光とは?地名?三光とは、最初の坑道「三光間歩(まぶ)」にちなんだものだそうです。いわれはわかっても、もともとの名前の由来は不明です。
②どこにあったのか。
 福井県史通市編4に地図が載っているのですが、現在の地図とあわせることができないのではっきりとわかりません。「大飯郡詩」の地図には、しっかりと「野尻鉱山」の名前が載っています。また、住友史料館の絵図もあり、具体的なイメージは持てるのですが、建物の位置関係ははっきりしません。でも、インターネットで検索すると「野尻銅山に行ってきました」というページもあり、実際に行った方のレポートもあるので、それをたどると行けるのでしょう。一度訪ねてみたいです。 
③山師はどこから来たのか。
 山師は、最初は生野銀山からのようです。
④公害への対応は。
 藩営として始まったあと、一旦休山します。その理由は、公害問題です。亜硫酸ガスによる煙害は農産物や油桐などへ、銅による水害は農作物などへ被害を与えていました。水害については、側溝をほって対応しています。どこにあったかも、一応書いているのですが、小字名や川の名前等が詳しくわからないと正確にはわかりません、本郷の方ならわかるのでしょうが。
 いずれにしても、産業学習としても、また、公害学習としても、活用できそうです。もう少し詳しく調べてみたいです。大変参考になりました。
野尻銅山絵図 京都市住友史料館蔵

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